道灌の残影|東京を彩る季語

失われた物見塚

陽炎や道灌どのの物見塚 一茶

道灌どのの物見塚日暮里駅西口を出て右の道を少し登ると、本行寺がある。むかし月の名所として知られた寺で、多くの俳人を集めたという。小林一茶もそこに集った俳人の一人で、文化8年(1811年)に掲句を残し、本行寺境内に句碑が建立されている。
ここにいう「道灌どのの物見塚」とは道灌丘のことで、明治時代の末に日暮里駅から北西に伸びる線路によって失われた。物見塚の脇に寛延3年(1750年)に建てられた「道灌丘碑」は、工事の際に本行寺境内に移設されて残っている。ただ、門前を行く通行人は多いが、歴史に興味を持って立ち入るものは、滅多にいない。まこと江戸築城の歴史は、陽炎のようになろうとしている。

ところで、道灌丘は失われたが、その道灌丘があったであろうあたりに目を向けるものは数多い。JRを跨ぐ道の上に見学スペースが設けられ、下を行く電車が観察できるようになっているのである。道灌どのの物見塚
新幹線や山手線・東北本線など、多くの系統の電車がひっきりなしに行き交い、鉄道ファンや子供たちが目を輝かせている。まさか目を向けている方向に、敵の様子を探る目があったとは思いもしないだろう。
暑い日にも、きれいに掘削された崖下に風が通る。一茶の見た陽炎は、風とともに消えてしまった。

【写真上】日暮里駅西口を出て、正面の道を渡ったところ。下に通した線路のために道灌丘はなくなった。丁度、この方向に道灌丘があったと考えられる。

【写真下】本行寺境内入って右側に、寛延3年(1750年)に道灌の子孫らによって建てられた「道灌丘碑」が残っている。かつては道灌丘の横にあったというが、鉄道工事で移設された。

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