俺の俳句

作句したものを批判されるのは嫌である。だから進展がないと言われても、それが俺の俳句。

そもそも、俳諧の連歌から独立した時点で式目は失せ、俳句は個人が楽しむべきものへと変化したのだ。そしてそれは、優越性を他者に示すものではなく、己を見つめるツールともなった。
陣を離れた兵法と同じである。兵法は、他人に勝つために修めるものではない。さもなくば、必ず一敗地に塗れるものと悟るべき。
その本質は、常に対岸にある。則ち、猛きこころの目指すところは柔である。柔を実現するのは、千変万化に耐え得る「こころ」。

俳句はこころを灯す。暗がりにもつれた情念を解きほぐすために。そこでは、簡素なる詞が言霊となり、胸中のイデアと出会うために絡み合う。
今日では写生が重視されるあまり、縁語への配慮に欠け、詞に力が無くなった。故に、他者の俳句で心に響くものは、そうそうお目にかかれない。

いまこそ俳句は、近世の縛りから解き放たれるべきである。さもなくば言葉遊びになるか、言葉の羅列の世界に留まるだろう。
俳句は、優劣や技術を論じるものではない。それを口ずさんだ時、大いなる発見があるものだ。
俳句を読もう。そして、俳句を詠もう。

(陰)